接点が消える
ここ5年で3回は引っ越しているが、どこに行くにも一緒だったガジュマルがとうとう枯れてしまった。原因は日照不足による根腐れ。今の家は午前中しか陽が射さないからだろう。
このガジュマルは、6年くらい前から友人の代わりに育てていたものだ。返すタイミングもなくそのままわたしの家にずっといた。
友人がガジュマルをわたしに託すきっかけを作ったのは、わたしだった。
同じくコミュニケーションや哲学に興味のあった友人にそれ関連の長期の研修を薦め、それに参加することになった友人は会社を退職し寮を出ることになった。友人の研修参加の決断は、今までの地位も環境もすべてをいったん手放し、生き方のリセットをするくらいのものだった。仕事のことを考えれば、後輩もいるし今のタイミングより後の研修のほうがいいだろう、でも心が今その研修に行く、を選択している。と。
生き方のリセット=関係性の見直し だと思う。
その友人自体は、知りたかった世界を知れてよかった。でも友人の両親は、急に会社を辞め、実家に荷物だけを置いて遠くで研修を受ける我が子に当然ながらの不安と研修への拒否反応が出た。友人は研修先で両親を安心させようと細々連絡を取っていた。しかし、両親との関係性の課題が浮き彫りになったのは、研修後に起こった友人のお父さんの癌による入院事件だった。お父さんが大好きだった友人は自分を責めた。ちゃんと説明すればよかった、不安をつくらなければよかった、と。手術は成功し、老後は北海道の実家で暮らす予定だった両親は退院を機に北海道移住を決断、関東にある家を売り、実家に引っ越された。その移住に友人も付いていった。
わたしも違和感はあった、研修に行くことを何で両親に話さないのか、と。心配させたくないその裏には何があるのだろう。でも友人の強く願う気持ちの前でその違和感は小さく霞んでしまったのだ。終わりよければすべてよし、は、始まりの大事さを捨てている。お父さんの癌はお父さんの考えで作り、子どもを離さないための手段だったのではないか…友人は本当はそこから自由になりたかったのかもしれない…。
わたしの後悔は、その違和感をかき消してしまったことだ。
少なからず友人の人生の岐路をつくったことに関わったから余計に大きく感じる。
北海道に行った後、友人とは連絡が取れなくなった。メールをしても返事は来ず。わたしの中の後悔の念を書いても読まれているかは不明。それから毎年友人の誕生日にはメッセージを送っていたが、一昨年くらいからそれも止まってしまった。
ガジュマルだけが唯一友人と繋がっていた接点だった。
そのガジュマルも枯れてしまったとき、悲しいと申し訳ないと思う気持ちと同時に、やっと終わった、と安堵する気持ちもあった。後悔の念や罪悪感をいつまで持てばいいのだろう、もう過ぎたことを引きずっても仕方ない。と、どこかで思っていながらも止められなかった。ガジュマルが枯れたとき、もういいか。と思えた。
友人もわたしも未熟だった。その未熟から何を学ぶのかはそれぞれが追求すればいい。
きっと友人もわたしの重たい気持ちを押し付けられても迷惑だったろう、ごめん。
この肉体を通して会うことがあるかは分からない。ただ、それぞれの人生こそ後悔のないものにしていけたら、離れていても心はハッピーだ。