未知suu

日常に起こったこと、心が感じたことを記していきます。

星読みさんの言うことにゃ。vol.1


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占星術
たくさんの星読みさんが宇宙に瞬く星の動きを解析し、その人なりの解釈をメッセージとして届けてくれる。
そのメッセージは時として読み手を励まし、気づきを与え、心を癒す。私もその一人としてメッセージをありがたく頂戴している。

多くの星読みさんの中で、抜群の解析力を持ち、人間愛あふれるメッセージを発信している naozoさん。私の大好きな星読みさんの一人。naozoさんは占星術の他に脳機能、認識学、スピリチュアル等人間の精神、心理をとことん追求してきた人。
宇宙の動きと人間の精神を繋いで解析してくれるので、星の動きが自分に起こっていることを実感させてくれる。
そんなnaozoさんの最新の星読みが、私の現状を言い当てているかのようだった。

https://ameblo.jp/naozo204/entry-12457367722.html土星の逆行に思うこと | 自由に生きる ~自分がここに生きる理由~

2019年4月30日  土星(課題)逆行
土星は物質的限界点だそうで、逆行により過去の限界が現象化されやすい、という解析だったような。

正にそんな現象が起こった。


今現在の自分の構成要因として最も大きい要素は、幼少期の母との関係だ。
GW帰省中、母とのコミュニケーションで今まで抱えていた課題を見てしまい、愕然とした。

母は躾に厳しく、私が幼少期の頃はいけないことをすれば手をあげる人だった。父と母は夫婦仲もうまくいっておらず、ストレスもあってか、躾という名の手をあげる行為は日常的だった。
お茶を飲みながらそんな昔の話になり、母は、あの頃の状態だったら子ども達に手をあげることも仕方なかった、父も周りの人達も、誰も頼れない状況だったと吐露した。子ども3人の育児、家事、仕事、全てを一人で担っていた母からすれば、仕方なかったのだろう。
だが、子どもの私からすると、その発言に地味にショックを受けていた。この人は私に謝ってくれないんだ。と。あなたのその躾で子ども達は恐怖心に強く反応するようになったのだよ?と。

そんな自分の思いが出てきて更にびっくり、私の中に、母に謝って欲しい願望があったのだ。

私の気持ちも理解して、という欲求。

母にとって私は、愚痴をこぼせる対象だった。周りに話せる人がいないから、小さい私に何でも話していたそうだ。母の姉は、そんな私が不憫だと泣いていた。そんなだったから、私は自然と自分の本音を話さなくなったのだろう。
時を越え母との会話により、ずっと封印していた欲求がむくりと起き上がった。

とは言え、今さら謝れと言っても何だか虚しい。
母も母で、好きでやっていた訳ではない。それをはっきりと告げられたし。
この欲求は一生満たされない…。

そこではたと気づく。
母は母でこんな自分になったのは周りのせい、父のせいと言い、
私も同じく、こんな自分になったのは、母、父、田舎の環境が原因だと言っている。
この負の連鎖をどこかで断ち切らないといけないのだと。

もちろん原因の理解も必要だけど、それだけじゃない。

私を作るのは私しかいない。誰かのせいにして私を諦めてはいけない。


naozoさんのブログの中にあった言葉
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私達の根源は同じであるが
ワタシはワタシであり
あなたはあなたである。

自分の世界と他者の世界を
明確に分けなければ
自分の『尊厳』はいつまでも誕生しない。
--------

今回のGW帰省で、母との心の中での決別、今までの生き方との決別を決断させられた。
軽くなった反面、強烈な虚しさに襲われる。今までが消えていくような感覚。


というのを、帰省から戻る移動中、naozoさんのブログを読み、自分に起こったことを整理してみた。
この工程をすると、自分に起こっていることは、起こるべくして起こり、宇宙のメカニズム通りなのだと納得させられる。
すべては必然、と言われるが、その必然が生まれるメカニズムがある。それを理解することは、自分の理解のみならず、すべての共通を理解することに繋がるのだろう。


星読みさんのメッセージを自分事にする。
明日いいことあるかも、なんて受け取りレベルで留まらず、自分の中に星がある、と思ってメッセージを読んでみるのが自分を進化させる効率のいい道ではないだろうか。


自由に生きる ~自分がここに生きる理由~
https://ameblo.jp/naozo204/

魂の賢さ


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ついつい発せられる言葉に引っ張られてしまうけど、よくよく聞いてみると、実はみんな生きる知恵も勇気もあって、自分でも気づいていない確固たる自信をもって生きている。

 

人を色眼鏡では見ることができないのは、見えない魂が賢いからだ。

だから、言葉は面白い。

広島原爆の日


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広島原爆の日70年目の今日。
とても暑かったですね。


最近、戦争体験者の手記や俳句に関わる仕事をしました。

太平洋戦争未体験である私は、寄稿されたものを読んで、その方々に起こったことをイメージすることしかできません。
でも、それは私にとってとてもありがたいことでした。
いま私が生きていることと、戦争のあった時代、ひいては日本と繋がったからです。

ある方の手記が忘れられず、今でも幾度となく思い出してしまうお話があります。
戦時中、鹿児島県のとある田舎で小学校高学年から思春期までを過ごされた方の手記です。

夏の暑い日、夏休みに学校へ行き、誰もいない校庭を走り回っていた時。
上空で零戦と敵機の一騎討ちが勃発しました。数分間の撃ち合いの後、一機が海へと墜落していきました。それを見ていた人たちは「やったぞー!日本が勝ったんじゃ!」と喜びました。
日本が勝つとしか教えこまれず、明らかな敗戦ムードだとしても、日本が負けるなんてことを口に出すことを認められなかった当時。飛行機が墜ちていく様をみれば、それは敵機だと思うのは当たり前です。

戦争後、その方は事実を知るために戦時中の鹿児島県のことを調べるようになります。
そこで見つけた事実。
あの時、海岸へ墜落していったのは、敵機ではなく日本軍の特攻機だったのです。

あの時なぜ海へ墜ちたのか?
実は、その方は一騎討ちを見たあとからずっとその事が気になっていたのでした。真っ直ぐ墜ちるかと思いきや、ぎりぎりまで操縦しているように見えた飛行機雲。
市街へ墜ちれば、街中火の海、何万人もの死者を生むことを知っていた日本の特攻兵が、自らの死をもって海に墜ち、最悪の事態を回避させたのだそうです。
それを知ったその方は、当時の自分達の陽気さ、無知を恥じ、特攻兵への涙と感謝を、戦後70年経った今でも持ち続けられているのです。

その方の詠む俳句には特攻兵への思いが溢れているものばかり。その想いを「特攻碑」という言葉に替えて、季節のうつろいと共に詠まれています。
読んでるこちらも、当時に想いを馳せれば、何とも居たたまれない気持ちになってしまうのです。

その方の作品はここでは紹介できませんが、回りを見渡せば、実はそんな想いがたくさん見え隠れするのが今の日本だと思うのです。

どんな想いで特攻兵は海に墜ちたのでしょう。
大きく負ける。その時の日本を支えた沢山の日本人は見事に散ることを通して、未来に生きる私たちに何を学びとってほしかったのでしょう。

70年間謝り続けた日本。
本当に作りたかった未来の日本に向かって、そろそろ動き出してもいいのではないでしょうか。
























あの人は、いま


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4年前の3.11。震災の日から今も、災害は続いている。終わることなく、形を変えて害は生み出され続けている。

私にとって大震災をリアルに感じたのは、震災後の3月16日。
地元の銭湯で出会った、被災地から命からがら実家のある東京に戻ってこられた女性との交流だった。

東京から福島に移住したその方は、震災直後、渦中の自分では見ることの出来ない、自分が置かれた状況をテレビで見てしまった。
そして、判断し実行した。
このまま被災地に留まる事によるリスクより、安全な実家のある東京に戻ろう、と。
幸いにも自動車のガソリンは満タンだったのだ。

しかし、彼女の二次災害はここから始まる。
道路という形が頼りなくあるだけ、両脇は大量の瓦礫と、もしかしたらその瓦礫の下にいたかもしれない被災者の見えない影。
そんな、何処に続いているか全く見えない地獄のような道を、後ろを一度も振り返らず、トイレ休憩も一切取らず、12時間、ハンドルを離さず、とにかくひた走り実家にたどり着いたそうだ。

私がその方に会ったのは、彼女が精神的に少し落ち着き、やっと外に出れるようになった頃。

下町の銭湯は、常連さんも一見さんも関係なく世間話で繋がれる、ゆるくてあたたかい場。
私も友人も、その方がまさかそんな体験をされていたなんて露知らず、いつもの通り話しかけた相手だった。

こんなところで自分一人、暖まっていていいのかな。

助けられる命があったかもしれない。

でも私は、生き残りたくて、車を降りることができず、ただただ走ってしまった。

胸痛く、取り返すことの出来ない現実に、ただただ自分は非力であることを見せつけられた一時だった。


私にとっての3.11は、震災日から5日後の今日。
毎年この時期になると私の心は重くなる。
何とも言えない悲しさ。
あの人はいまどうしているのか、知りたいようで現実を受け止められる程の器が自分にあるのか、そんなことを考えるちっぽけな自分。
純粋に平和に過ごしていてほしいと願う心が交錯する。

いつか何処かで会うことができたら、なんて声をかけよう。

銭湯、行きませんか?



拝啓、安藤様

貴方の偉大さに気づかされるのは、一瞬ではありません。

一すすり。
美味しいなぁ。

そうしみじみ感じる時、いつも思うのです。


有り難いことに飽食の時代、
私はいつも悩みます。
今日はどの味と出会おうか、と。


チキンラーメンを世に送り出した頃、貴方には想像がついていましたか?
巨大マーケットと化した今のインスタント業界を。

高度経済成長と共に育ったインスタント業界の裏には、その手軽さからくる、食への意識低下を助長させる流れも生みだされました。

どの観点からみたらいいのか。

今日は純粋に、貴方の汗と涙の結晶として生み出された人類歴史に残る商品として出会います。

ご馳走さまです!


一杯に無限の愛を感じて
なべ

科学と映画

http://wired.jp/2015/03/01/interstellar-real/



あらゆる点で映画の概念を覆した作品であると私は思う。

映画=フィクション

という概念は終わりを告げる。
最近の映画は、現実が11次元の夢の中であることを立証する、言わば科学観点からのアプローチでストーリーが構成されている。

マトリックス」は、脳科学と繋げて現実がバーチャルであることを客観的に映像化してくれた。

人間の知性は、真実を理解したい、その欲求の塊なのかも…

自分の考える範囲のちっぽけさから、その範囲を超えたときに出会う未知の領域に萌える…