広島原爆の日
とても暑かったですね。
最近、戦争体験者の手記や俳句に関わる仕事をしました。
太平洋戦争未体験である私は、寄稿されたものを読んで、その方々に起こったことをイメージすることしかできません。
でも、それは私にとってとてもありがたいことでした。
いま私が生きていることと、戦争のあった時代、ひいては日本と繋がったからです。
ある方の手記が忘れられず、今でも幾度となく思い出してしまうお話があります。
戦時中、鹿児島県のとある田舎で小学校高学年から思春期までを過ごされた方の手記です。
夏の暑い日、夏休みに学校へ行き、誰もいない校庭を走り回っていた時。
上空で零戦と敵機の一騎討ちが勃発しました。数分間の撃ち合いの後、一機が海へと墜落していきました。それを見ていた人たちは「やったぞー!日本が勝ったんじゃ!」と喜びました。
日本が勝つとしか教えこまれず、明らかな敗戦ムードだとしても、日本が負けるなんてことを口に出すことを認められなかった当時。飛行機が墜ちていく様をみれば、それは敵機だと思うのは当たり前です。
戦争後、その方は事実を知るために戦時中の鹿児島県のことを調べるようになります。
そこで見つけた事実。
あの時、海岸へ墜落していったのは、敵機ではなく日本軍の特攻機だったのです。
あの時なぜ海へ墜ちたのか?
実は、その方は一騎討ちを見たあとからずっとその事が気になっていたのでした。真っ直ぐ墜ちるかと思いきや、ぎりぎりまで操縦しているように見えた飛行機雲。
市街へ墜ちれば、街中火の海、何万人もの死者を生むことを知っていた日本の特攻兵が、自らの死をもって海に墜ち、最悪の事態を回避させたのだそうです。
それを知ったその方は、当時の自分達の陽気さ、無知を恥じ、特攻兵への涙と感謝を、戦後70年経った今でも持ち続けられているのです。
その方の詠む俳句には特攻兵への思いが溢れているものばかり。その想いを「特攻碑」という言葉に替えて、季節のうつろいと共に詠まれています。
読んでるこちらも、当時に想いを馳せれば、何とも居たたまれない気持ちになってしまうのです。
その方の作品はここでは紹介できませんが、回りを見渡せば、実はそんな想いがたくさん見え隠れするのが今の日本だと思うのです。
どんな想いで特攻兵は海に墜ちたのでしょう。
大きく負ける。その時の日本を支えた沢山の日本人は見事に散ることを通して、未来に生きる私たちに何を学びとってほしかったのでしょう。
70年間謝り続けた日本。
本当に作りたかった未来の日本に向かって、そろそろ動き出してもいいのではないでしょうか。