夜の父からの電話。
仕事で出れず、着信履歴を見てどきっとする。
何かあったのか?と。
翌日かけ直してみると、元気なのか?と。
声が聞きたかっただけだ、と。
安堵とともにはっきりとある距離を感じる。
両親の離婚で子どもの親権はすべて母になった。父としての役割は、それから何もなくなった。
それでも血の繋がりで言えば親に変わらず、年に数回は連絡を取るようにしている。
母と妹たちの前で父の話はタブー。父のことを長年憎んでいる。わたしは憎むことに意味が見いだせず、それを引いて見ている。故に父との唯一の連絡網になっている。
数年前、妹たちの結婚報告をしに、意を決して父の元へ行った。久しぶりの対面は和やかに進んでいたのだが、何かのきっかけで父が妹を怒らせ、妹は二度と会わない、お前は親じゃない宣言をした。
そんなことがあったにも関わらず、父はたまの電話の締め括りに必ず、妹たちは元気か?たまには様子を教えてくれよ。を毎回聞いてくる。
カノンというドキュメンタリーをみたときに、血の繋がりを越えた家族の姿に思うところがあった。
血が繋がっているから許せないこと。
血が繋がっているから許せること。
血が繋がっていないから許せたり許せなかったり。どれも紙一重でしかない。
父はどれだけ憎まれても、交流がなくなっても、子どもたちの親でありたいのだろう。
それは血の繋がりがそうさせるのか、
たとえ血の繋がりがなかっとしても、そうありたいと思えるものだろうか。
家族は社会の一部であり、社会の最小単位である個人を形成する場でもある。
どんな家族に個人が育てられ、家族、社会をつくっていくのか。家族は社会をうつす鏡でもあるのだろう。
であれば、うちの家族は、見た目はバラバラ。
だけど本当は家族みんなが好き。
愛情表現が下手で不器用な家族だ。
社会全体がそんな感じなのだろうか。
本当は…を出していける家族になれたら、もっと生きやすくなるのだろうなぁ。